下村健一のプロフィール

PROFILE

下村 健一

令和メディア研究所 主宰/情報スタビライザー/時々ジャーナリスト

● TBS報道局アナ(スペースJ、等)を15年務めた後、フリーキャスター(筑紫哲也NEWS23、サタデーずばッと、等)10年。社内外表彰(16件)から批判の的(回数不詳)まで、評価の振れ幅大。
● その後、内閣審議官(2年任期満了後は民間契約アドバイザー)として計約900日、民主・自民の3政権で政府の情報発信に従事。3・11に遭遇、苦闘。
● 東京大学客員助教授、慶應義塾大学特別招聘教授、関西大学特任教授などを経て、現在は白鴎大学特任教授。小学教科書の執筆から企業研修まで、幅広い年代のメディア・情報教育に携わる。
● 現役若手メディア人の勉強会の場として「令和メディア研究所」を創設、主宰。
● ネットメディアの創造性&信頼回復を目指す「インターネットメディア協会」(JIMA)に、設立理事として参画。メディアリテラシー部門を担当。

★ 船体の横揺れを小さくする装置が「スタビライザー」。情報の横波で世論が右や左に大きく傾きかけた時、姿勢を立て直そうとする役割。平時には、メディアリテラシー教育という形で1人1人にスタビライザーを配る。
★「時事」ではなく、「時々」(ときどき)ジャーナリスト。報道が足りない!と感じる分野や視座を、元プロの眼力で、自ら発信。

[Ⅰ]1960-1985

少年時代

江戸っ子の血、町田の水で育つ

1960.07 お江戸・八丁堀生まれ ~1才で町田に転居
1979.03 東京都立立川高等学校 卒
1981.04 無所属地方議員向け政策シンクタンク『市民情報センター』スタッフ東京近郊各地の“市民選挙型”市議候補者の選挙事務所スタッフを歴任。(武蔵野市議選では選対事務長代理)→相次ぎトップ当選
1983.09 国のINS実験を現場検証する学生グループ『Ichi・Nino・San!』代表。
1984.02 都市型CATVの旗揚げ第1号『町田市民テレビ』開局準備室スタッフ。(現『JCOMせたまち』。名称から“市民”が外された時点で、興味を失い手を引く。)
1984.08 新タイプの補習機関『ワンステップ質問教室』を創設、主宰。
1985.03 東京大学法学部政治コース 卒

[Ⅱ]1985-1999

TBSアナウンサー

ニュースの現場を伝える職人

1985(昭和60)年 4月 TBS入社(一般職採用枠)~報道局アナウンス班に配属。
1993年6月 男性としては日本のTV界で初の“育児休暇”を取得、話題に。
1999年3月 TBS依願退社~そのまま次の定職に就かず、第2子の“自主的”育児休暇。
1999年4月 TBSラジオ「ビッグアップルリポート」開始。(帰国後は「下村健一の眼のツケドコロ」と改題)

[Ⅲ]2000-2010

市民メディアアドバイザー、フリージャーナリスト

誰もが発信できる新時代に伴走

2000年9月 日本に帰国と同時に、(株)セラフ に入社。メディア事業部長に着任。
2000年10月 衛星ラジオ「BS-academia」“学生ニュース”アドバイザーに就任(~03.3)
2000年12月 BSジャパンの実験的経済番組『ネクストステージ』キャスター登板(~02.3)
2001年3月 小学生向けメディア・リテラシー教材ビデオ作成(総務省・お茶女大)に参画。
1983.09 2001年4月 東京大学・社会情報研究所 客員助教授~非常勤講師として、「メディア表現論」等の 授業を担当。(~03.9)
2001年10月 各地の小中高大学のメディア・リテラシー授業に、一日講師として行脚開始。(継続中)
2002年4月 市民メディア応援企画の実現を目指して、TBS『サタデーずばッと』登板。(~’10.9)
2002年9月 三越の紳士服イメージ・キャラクターに。(~04.8)
2004年5月 TBS『筑紫哲也NEWS23』特集コーナー「それから七十五日」登板。(~’06.9)
2006年6月 経産省・文科省委託「エネルギー情報研究会議」委員 就任。 (~’10.10)
2006年7月 日本民間放送連盟 メディア・リテラシー・プロジェクトに参画。(’06広島、’07夕張、’08愛媛、’09福岡、等)
2008年10月 NPO法人『リカバリー・サポート・センター』理事就任。(~現在)
2009年11月 NPO法人『市民がつくるTVF』発足、理事就任。(~’20夏)
2010年9月 契約更改期を機に、全てのテレビ仕事から撤退。(株)セラフも退社。

[Ⅳ]2010-

内閣審議官、大学教授等

議論できる世界、形成目指し

2010年10月 民間登用で、政府の役人(内閣審議官)に就任。
内閣広報室で、首相官邸の情報発信を担当。(~12.10)
2011年7月 TBSラジオ「政策情報官邸発」開始。(~’13.3)
菅・野田・安倍首相らとのミニ対談番組。
2012年10月 民間契約のアドバイザーとして内閣広報室の業務を続行。
安倍政権の初期まで見届け。(~13.3)
2013年2月 (有)下村健一事務所 代表取締役社長に着任
2013年3月 月刊「広報会議」内に『あの危機の広報対応』連載開始(~14年5月)
2013年4月 BS朝日『午後のニュースルーム』火曜レギュラー・コメンテーター登板(~9月番組終了まで)
同月 慶應義塾大学特別招聘教授/関西大学特任教授 着任(〜’17.3任期満了)
2014年1月 毎日新聞社&「8bit News」共催『毎日女性会議』レギュラー講師 着任(’17.4〜『毎日ビデオジャーナリズムラボ』と改称、継続中)
2014年4月 白鴎大学客員教授 着任(’19.4〜特任教授に)
2014年10月 インターネット放送局「WALLOP」で対談番組『下村健一の“知ってる?この話”』スタート(不定期)
2015年4月 小学5年国語教科書(光村)に、書き下ろし「想像力のスイッチを入れよう」掲載 (継続中)
同時に、この内容と完全連動する4冊目の著書「10代からの情報キャッチボール入門」出版 (’19 第9刷)
2019年4月 現役若手メディア人たちの勉強会「令和メディア研究所」開設、主宰。「インターネットメディア協会」(JIMA)旗揚げ、メディアリテラシー担当理事 着任。

同志たち at random

土屋努

株式会社セラフ 取締役会長

たぶんジジイになっても永遠の少年コンビ

中学時代からの40年を超える同志。下校路の途中にある小田急線の陸橋「東(アズマ)橋」の上で、「いつか社会のためになることに挑戦しよう」といつも熱く語り合っていた。エネルギーの塊りのような男で、その即断即決の行動力に僕はいつも感服し、自宅の勉強机にはいつも「土屋に負けるな」と大書した紙を掲げていた。

それぞれ進学・就職と別々の道を歩むが、ほど良い距離の付き合いと互いへのリスペクトは続く。35歳の頃「そろそろ独立して、新しいチャレンジを始めるか!」という僕の一声に、持ち前の即決で彼はすぐ大手銀行を辞め、株式会社セラフを設立。4年近く遅れてやっとTBSを辞めた僕を、メディア事業部長として同社に迎え入れ、本業の傍ら、BSジャパンや古巣TBSで僕のレギュラー番組契約の折衝を、全て担ってくれた。最大の友人であり恩人である。

特別国家公務員(内閣審議官)着任に伴い、僕がセラフを退社する際には、退社自体ではなく“政治色がつくこと”に土屋は猛反対した。とにかく不偏不党…と言うより政治嫌いで、「本当に世の中を変えていけるのは、政治でなく経済と技術と教育(情報)だ!」が信条の男だから。

それでも、縁は切れなかった。僕が民間に戻った今、大学などに活動の場を移したのでセラフの直属の社員には戻っていないものの、また原点回帰で“東橋時代”のように――ただし今度は《いつか》ではなく《今こそ》を念頭に、オッサン2人で定期的に作戦会議を開いては、あれやこれやと考えたり試みたりを続けている。


エム・ナマエ

イラストレーター

“見えてる”全盲の表現者

私たち夫婦の結婚式で、結婚証明書への署名をお願いした立ち会い人。ナマエ夫妻は、私が最もリスペクトする「夫婦の形」の体現者だから。

売れっ子イラストレーターでありながら、糖尿病で中途失明したナマエさんだが、失意のどん底での入院生活で出会った看護師が、今の奥さん=通称「コボちゃん」だ。彼らの結婚パーティーで参会者全員がもらった夫婦の似顔絵イラストは、誰もが息を呑むものだった。目が見えた頃の緻密な線とはガラリと変わった柔らかい画風で、ナマエさんが描いた新郎・新婦の2ショット。失明後に出会って一度も見たことがない、想像で描いた新婦の顏はーーー本当にコボちゃんそっくりだった。

「失明してから人生が見えた」とか、「目が見えないと、美女に惑わされないで人が見えるんだよね」(そういうことかい!)とか、彼は時々“見える”という言葉を使う。本当に、ある意味で“見えてる”よな~と私も思う。

かつてニューヨークでの初個展で起きた、憧れの故・ジョンレノンとの奇跡。そして、そこから始まったベビー服デザイナーとしての全米デビュー。その展開は、ちょっと神がかっているほど劇的だった。

今もナマエさんと僕は、時々電話で、お互いのカミさんがいかに怖いか自慢しあっている。